京都市美術館「高島屋百華展」

 まずは、本日のメイン。「高島屋百華展」の感想です。高島屋といえば美術部の存在が大きく、「美術関連に強い」と言われたりしますが、今回、難波の大阪高島屋東別館にある資料館より所蔵品2万点のうちから厳選した約100点が出展されています。
 最初に観想を言いますと、一企業の範疇を超えた優れた作品群であり機会があればぜひ見られることをオススメします。
 展示内容も、日本画・洋画にとどまらず、ポスター、陶芸品、染色品、呉服というように非常に幅広く展示されていました。また、作家の名前を見ても「横山大観」「竹内栖鳳」「東山魁夷」「加山又造」「橋本関雪」「河井寛次郎」「富本憲吉」「梅原龍三郎」「東郷青児」「藤田嗣治」などなど、日本の近代・現代芸術における巨匠達の作品が展示されています。その作品一つ一つの存在感もそうですが、それ以上に、これらの巨匠達に作成を依頼するということを信頼関係を保ちながら続けてきた高島屋という存在の大きさを否が応でも感じてしまいました。
 特に、私が印象に残ったものとしては4点ありました。
 1つ目に、明治以降の「近代」という時代とデパートメントとしての百貨店の登場、それと追随する「万国博覧会」「内国勧業博覧会」などの、近代化装置としての博覧会の展開(本展覧会では詳しい解説はありませんでしたが、以前に私が読んだ「博覧会の政治学〜まなざしの近代〜」を読んでいただくと、近代化=見える化→自国の優位性の誇示→アトラクション化という流れが出てくるんですが、本展覧会においては近代化=見える化における時代において、当時の日本のみならず、世界各地での万博をはじめとする博覧会への多数の出品と受賞暦が展示されています。このように、博覧会へ出品することによって、製作過程において自らのレベルを高めることが出来ると同時に、自らが世の中(国内外を問わず)一体どの程度のレベルに位置におり、何が優れていて何が不足しているのかを「見える化」する作業であるともいえます。
 2つ目に、海外を意識して作家の方に作品を依頼しているものは、作者の個性が出ているものの、やはり「売れる」ことが大前提ということ意識してなのか?私には、個別の作家の方の展覧会で見る作品のような、個性を非常に強く押し出したようなものはそれほど見当たらなかったように思います。逆に言えば、それだけの条件により表現を使い分けが出来るということであり、まさに「プロ」であると感じました。また、これも「売れる」というのが多少含まれるのかもしれませんが、「近代=個人の内面に眼を向ける」ということが徹底して表現されているのがよくわかります。戦後の大阪万博においてこれからの日本の未来を語る際に、「岡本太郎」「横尾忠則」といった方達が作品製作を依頼されたように、近代デパートメントのイメージとして「個人」というキーワードが貫かれているのがよくわかります。
 3つ目として、以前に「藤田嗣治の手しごとの家」にて藤田嗣治が自ら服を縫ったり自らの食器などを作っていたというのは知っていたのですが、藤田嗣治東郷青児が女性用の水着をデザインし高島屋が販売していたということが私は今回初めてわかりました。当時のカタログが展示されていたのですが、なかなかモダンなデザインとなっていました。それと同時に、子供向けの催しがなされ始めていたことが当時の広報誌から読み取ることが出来ました。つまり、いわゆるサラリーマン層の誕生とそれに付随して子供に「良いものを」という意識の高まり(←それだけ購買力が出てきた証拠)、自立した女性が増えるという近代化の大きな流れが垣間見ることが出来ました。
 4つ目に、最後の呉服の展示コーナーで新進性を重んじる作品群において1991年製作の繊細さが特徴となる「ロココ調」の着物が展示されていたのが興味深かったです。1991年と言えば、バブル崩壊時期です。ファッション流行については詳しくないのでなんとも言えませんが、「モードとエロスと資本」によれば、2000年代は女性は男性的なもの、男性は女性的な繊細なものを求める傾向が出ているようです。それを考えると、現代においては今回見たような呉服は男性向けとしては意外に成功する部分が出てくるのかもしれません。
 最後ですが、明治・大正期の高島屋のポスターが展示されていましたが、「立ち止まって」しばらく眺めるような作品であり、現代のように「パッと見てスッと立ち去る」1〜1.5秒の世界観とは全く異なるものであるものでした。はたして、このような再び数秒だけでも立ち止まって眺めるという時代はやってくるんでしょうか?とフト思いました。