大阪高島屋「生誕120年 河井寛次郎 生命の歓喜」

 続いて、大阪高島屋に今回のメインである「生誕120年 河井寛次郎 生命の歓喜」を見に行ってきました。行ってみて偶然にも河井寛次郎記念館の学芸員河井寛次郎の孫にあたる鷺 珠江氏のギャラリートークが行われており、私の観覧時間は大幅に増えましたが、展示の解説だけではわからなかった作品の裏話(河井家には頻繁に多人数の来客があったために、食事の準備も人数が読めないために、大きな壷に大量の茶碗蒸しを作って、それを人数分に分けてお客をもてなしたことや、ウィーン万博で1等を取った際の賞状を、押入れの布団の奥に入れていたので、布団を取り出した際にバタンと額縁ごと倒れてきて「こんなものが、こんなところに!」という事があった話など)が聞けて興味深いものでした。
 今回、展示方法として年代順に作品を並べるというのではなく、素の河井寛次郎がどのようなものであったのか?という展示になっており、高島屋では90年ぶり(!)に展示された作品や、自室の再現のコーナーでは自らデザインした机や電灯の笠にいたるまで、日常の現場を垣間見ることが出来ます。興味深いのは、これらのデザインしたものは自らが作るだけではなく、周囲にいる職人仲間などに依頼して作ってもらったものも数多いという点であり、河井寛次郎という人の人柄の良さが伝わる一面であると感じると同時に、ここに展示されている作品は「実際に使用するためのもの」であるというのが私には驚きと感動を同時に感じました。
 30歳のころに製作された作品は既に完成の域にある極めて優れたものであり、見るものを驚かせるのですが、その後、河井寛次郎はこの完成された作風をどんどん変化させていくのにも見るものを圧倒します。例えば、初期は銘をいれていたりしたのが、

(ここより引用)

「余計な名前が付くと価値が変わるのは本望ではない」

(引用終わり)

として以後、自分の銘は入れなくなるなどの逸話があったりと、欲のある私なんかはとても真似できない話です(苦笑)。
 展示をどんどん見てゆくと、木彫りの像が現れてきたり、抽象と具象の中間のような陶器が現れてきたり、その製作された年齢が70歳を超えてからというのに驚きました。河井寛次郎は生涯にわたり常に作風を変化させたのですが、70歳を超えてこれまでの作風をさらにがらりと変化させ、まるで古代縄文時代の精霊崇拝的な土偶のような姿のものが多数現れそして天寿を全うするわけですが、70歳や80歳にしてこの若いころに増しての精力的な制作活動を見ると、私の年齢なんかではまだまだ子供であると語られたような気がしました。