京都市美術館「親鸞展 生涯とゆかりの名宝親鸞展 生涯とゆかりの名宝」

 さて、ここから本日のメインの1つ目「親鸞展 生涯とゆかりの名宝」について感想です。
 今年は親鸞の没後750年。法然の没後800年というように節目の年が重なっていることもあったりで、京都市内2箇所で展覧会が開催されています。おそらく、同時にこの親鸞法然の宝物を一堂に見る機会というのは今後そうそうないと思いますし、私の場合「国宝 三井寺展」を見て以来、宗教心というよりも、なにゆえにそれほど人々を引きつける力があるのか?(それは、信仰心というのは当然ありますが、その外縁として何が作用しているのか?また、そのために寺側もどのように運営されてきたのか?という歴史)を実際の宝物を見ることによって、今のこの混乱期において、何百年と続いてきた宗派の歴史を知る意味があると思っているのが一番の理由です。
 で、肝心の展覧会の方ですが、基本的にお経などの経典が中心であり、後半部分で狩野探幽の書画や三十六歌仙などの貴重な品々が展示されていました。これは、「本願寺」を読むと分かりますが、教団が繁栄を手にした頃からの話であり、今回の展覧会の中心はなんといっても親鸞その人の生き様であると感じました。今回初めて、教行信証親鸞の真筆を見ることができたのですが、以前に「平城京遷都1300年 大遣唐使展」にて空海の真筆を見たことがあり、その人間が書いたとは思えない驚くべき達筆でまさに三筆に数えられる人物なんだなと実感したのですが、比べて親鸞の場合、非常に力強い筆跡ながらどちらかといえば、在野の人間ということを感じることができる人間らしい字であり、当時の親鸞への厳しい弾圧とそれに負けじと、芯を貫き通す強い力を感じました。
 上記以外にも、細かい字で本文の端に幾つも添え書きがあるようなものがあったりと、親鸞その人の驚くべき力強さを垣間見ることができます。
 一つ面白かったのは、阿弥陀如来から光が放たれている仏画があったのですが、構図が「ロトチェンコ+ステパーノワ─ロシア構成主義のまなざし」でみたものや横尾忠則氏の作品のような画面下の左右部分に人物(仏画なので仏様ですが)を配置し、上部に幾つかの仏像を配置する、その中心から四方八方に光が放たれている様子は、既に鎌倉時代に同様の様式が完成されていたのか?!という驚きがあると同時に、この構図は見るものに訴える何か不思議な力を持っている普遍的なものなのかもしれないと感じました。
 もう一つ。「西本願寺・特別公開「飛雲閣」」で外側を正面から見た飛雲閣ですが、今回中の襖絵が一部公開されており、通常の日本画とは一線を画す表現であることに驚きました。まるで、コローの絵を見ているかのような風景画的な描き方がなされており(実際には、私がそう見えただけかもしれませんが)、戦国期当時にこのような表現があったことにかなり驚きました。
 最後に今回の展覧会の難点として、経典が多いことからもわかるように専門的な傾向の展示内容になっており、やや難しいようには感じたのは事実です。